宝光寺の開基は、新発田藩祖溝口秀勝公です。その後、江戸時代は歴代藩主に外護されてまいりました。
このコーナーでは、歴代藩主について紹介してまいります。
秀勝公は、天文十七年(1548)、尾張国中島郡西溝口村に、地侍溝口勝政の長男として生まれました。幼名は竹、元服後は定勝と名乗りました。
織田信長の家臣、丹羽長秀に仕えて武功をたて、天正九年(1581)、長秀の与力大名として若狭国高浜城主となり、五千石を与えられました。
天正十一年(1583)の賎ケ谷の戦いでは、敦賀にあった秀吉軍に馳せ参じ大いに功をたてました。これによって加賀国大聖寺城主となり、四万四千石を与えられました。
慶長三年(1598)正月、越後の領主上杉景勝が会津に移封されました。それにともない、秀勝公は新発田6万石の初代藩主として入封しました。
秀勝公は治水・用水工事を進め、新田開発を奨励しました。これは、明治期まで代々の藩主に受け継がれ、現在の穀倉地帯蒲原平野の基礎が作られました。
秀勝公は、江戸三百年間の新発田藩主としての基礎を築き、慶長十五年(1610)九月二十八日、享年63で没しました。遺体は五十公野で荼毘に付され、現在遺骨は当山の墓塔に納められています。
御戒名は、寳光寺殿性翁淨見大居士と申されます。