← 法話一覧に戻る

坐禅の功徳

平成16年8月1日記

「坐禅をして健康になりたい」「坐禅をして集中力がつけたい」「坐禅をして腹のすわった人間になりたい」等々、坐禅会に来られた動機をおたずねいたしますと、様々の答えが返って参ります。確かに坐禅は、健康維持に役立つと思いますし、集中力がつく方もおられるでしょうし、落ち着きが出てあわてなくなり腹がすわるということもあるでしょう。

坐禅に長く親しむ方々の共通点は、動機に関係なく、やがて坐禅そのものが好きになることです。坐禅をすると気が晴れる、嬉しくなる、ストレスが発散されるような気がする、等、表現はいろいろでしょうが、とにかく楽しいという意味のことをいわれます。

道元禅師は、「只管打坐(しかんたざ)」といわれます。「ただ坐る」ことと、私は理解しています。坐禅にたいそうな思想的な意味などないのです。人生も同様です。元々、人生に意味などありません。ところが、人間には何かあてがないと良くは生きられないものです。ここに「人生の意味」が必要になってきます。「人生の意味」は自分で考え出すもの、創造するものなのです。

毎年一回、「名人と一緒に学ぼう」という体験学習の講師として、御免町小学校に「坐禅名人」として呼ばれるようになって五年になりました。今年は、七月五日におじゃまして、二年生の希望者十一人と一緒に坐禅をしてきました。「静かに坐禅してたら、いつもは聞こえない鳥の声や電車の音、風の音が聞こえて、すごく落ち着ついたよ」というような感想がありました。「坐禅の功徳」としては、これでじゅうぶんではないでしょうか。

たんたんと日送りをする、いろいろなことがあるが引っかかりすぎず毎日を平穏無事に過ごす、ことが人生の極意であり、それを象徴的に行ずるのが坐禅なのかもしれません。

← 法話一覧に戻る