平成19年1月1日記
現代社会において、倫理的に生きることは至難のわざとなりつつあります。「倫理」とは、人として守るべき道。道徳。モラルと示してあります。人と人との関係・秩序を良好に維持する原理が「倫理」であり、科学技術が高度に発達し、流動性が高まり・価値観の多様化した現代社会では、「倫理」も流動的・相対的にならざるを得ないようです。
ところで、「宗教」の倫理と「世間」の倫理は必ずしも一致しません。悟った人が世間的・社会的に「善人」とは限らないのです。「宗教」の倫理は、「出世間」あるいは「超世間」であり、「世間」的な尺度とは物差しが異なるのです。
しかし、ごく一般的な社会生活を送る大多数の人々には、宗教の倫理は無関係かと言えば、そうではありません。生者は生者同士だけで、生者との関係でだけで生きているわけではありません。死者との関係の中でも生きているのです。死者との関係こそが、大多数の人にとっての「超倫理」であり、「超世間」なのです。
昨年の十一月には、お二人の方とお別れいたしました。上旬に、宝光寺の役員を長年勤めていただいた方、そして下旬に義理の叔父で栃木県のお寺の住職吉留誠道老師です。
吉留師には私が僧侶になり、修行に行く前からたいへんお世話になりました。衣の着方やお袈裟のつけ方、お経の読み方、作務の仕方など、基本的なことを何一つ知らず、大学に通いながら毎週土曜日になると興福寺に行き、さまざまのことを学びました。
吉留師は、美術大学で学ばれたセンスを存分に発揮して、興福寺を檀家さんにとってのこの世の浄土とすべく努力してこられました。「一般のお寺は、本山とは違って檀家さんあってのものなのだから、とにかく檀家さんを大切に、檀家さんが喜ぶお寺作りをしなくちゃね」と、とにかくお檀家を大切にしておられました。
吉留師は六十五歳、いつでも会えると思っていて、六年前の宝光寺の客殿落慶法要以来、電話で話しただけで直接お会いすることもありませんでした。そのせいか、遷化(せんげ)されてからの方が身近に感じられるようになりました。師のことを思い起こせば、いつでも話すことができるからです。
私は吉留師の教えのどのくらいを実現できているのか、また実現できるのか、わかりませんが、師との対話を通して精進して参りたいと思っています。
皆様にも、亡きご家族・ご先祖様との対話を大切にしていただければ幸いです。